会社経歴
小久保桃江(初代社長・故人)の記憶と伝承によりますと、弊社は神田鍛冶町の水菓子問屋(今ならフルーツパーラー)、駿河屋左七の分家に当たるのだそうです。 何代かを経て、明治の頃に清澄2丁目で計量器販売を始めました。
この年(明治20年と伝承)をもって、弊社創業の年としております。 この計量器販売は、10年ほど前まで細々と続けており、時折は和菓子屋さんへ秤を納めさせて頂いておりました。 昭和27年、小久保桃江が㈱小久保商店社長に就任後、消火器販売を着手致しました。 お陰様で今日に至る60年間の防災事業でご愛顧を賜っております。
昭和37年、その頃、一世を風靡した国産初の粉末ABC消火器を取扱い、防災メーカーの雄、宮田工業の代理店として、皆様の防火のお手伝いをして参りました。 株式会社に改組したこの年を、弊社設立の年としております。 店舗を白河に移してからは、消火設備のほか、警報設備・避難設備・標識等、営業品目を徐々に拡充しております。 この頃は、初代小久保桃江(平成18年、104歳で没)の元気な時で、社業と、桃太郎の研究で多忙な日々であったそうです。
会社は、地下鉄の清澄白河駅予定地の直上に位置したため、開通する前年に、白河から現在地の深川へ移りました。二代目社長に長谷川勝治が就任し、1年間で売上を前年3倍にする獅子奮迅の活躍で、その後10年間の礎を築きました。移転直後は、会長99歳、社長70歳、社員も70代、60代が大半を占めておりました。 現在は大幅に若返った弊社ですが、その名残りで、80歳までは中堅、 100歳からをベテランと呼んでおります。
平成12年、新代表として桑原豊が就任し、新たな事業として、油濁防除業務を加えました。これは、河川・湖沼に油流出事故が発生した際の緊急処理や、処理資材の販売を目的とした事業です。国内では、こうした事業を専門的に行う企業がなく、水質を担当する国や都道府県・市町村のニーズに対応した分野です。 同有の志を持つ事業者が、「NPO油濁防除研究会」を立ち上げ、全国初の実験用水路を製作し、新しい資機材の開発を試みて参りました。その結果、世界初の投てき型油吸着マット「とび丸」を国土交通省関東地方整備局との共同特許取得に至りました。このマットは、弊社が製作を担当し、数々の油流出事故現場で活躍しています。
「街頭消火器」のプランは弊社が発端?
皆様が、道路脇で目にされる「街頭消火器」の誕生は、実はこの壮年期の初代桃江社長と、消防署長の茶飲み話が発端で実現したのだ、と本人が回想しておりました。 なんでも、関東大震災の時に見た(こういう話が普通に出ます)建物入口からの火の粉が火事を群発させた記憶が鮮明で、「街頭消火器」の必要性を発想していたそうです。
今では、江東区内に3000本以上の消火器が設置されましたが、全国に先駆けての「街頭消火器」設置が江東区であったことはあまり知られておりません。
桃太郎と小久保桃江
初代社長の著書「桃太郎を世界へ」で著者略歴を見ると、昭和12年、大日本桃太郎少年団結成とあり、当時から、桃太郎話における幸福の5原則を説いていたことが判ります。
やや難解なのですが、人間が幸福でいるための5要素について、
桃太郎→健康、きび団子→富、犬→仁、猿→智恵、雉→勇気
簡単に言えば、この5要素が、桃太郎説話の根幹なのだという説です。
この論旨に至るまでの説明をうっかり質問すると、インドのラーマーヤナ物語や中国の西遊記に始まり、仏教・儒教・神道の知見から、各地の桃太郎話に敷衍し、「桃太郎は江戸っ子だった」とか「GHQにより桃太郎は教科書から排除された」というような話まで延々と続くのでした。
その後、日本桃太郎の会初代会長就任し、また、全国の桃太郎ファン(案外たくさんいます)垂涎のコレクションを自宅で公開するなど、この分野では追随を許さない活躍を致しました。 他界後は、これらのコレクションは岡山市高梁市の縁者、桃太郎資料館へ移設されています。
弊社も、強く、優しく、逞しい桃太郎の心の伝統を引き継いで参る所存でございます。